その行動の先に在るのは、一体何?
将来のため。
家族のため。
自分のため。
人は何か目的があって、その目的を達成するために、日々行動しているはず。
じゃあ、一体、今のこの行動は何のためで、誰のためのものだろう。
そして、この行動をし続けた先には、一体何が待っているのだろう。
漠然と考える目的であるその「何か」は、絶対必要なんだろうか。
その「何か」を手に入れたとき、本当に今の行動に意味があったと言えるだろうか。
お金を稼ぐため、誰かの幸せのため、自分のため。
そんな何かのため、というのは、本当に「~ため」になっているのだろうか。
突き詰めたその先にあるのは、一体、何。
親子ってなに?それ美味しいの?
血のつながりがある親子でも、不仲な関係はたくさんある。
それなのに、今回の埼玉の義理の父親による子どもの殺害でのネット上の意見が自分にとっては納得がいかないことばかりだ。
「離婚はするべきではない」
「血のつながりは大事だ」
「やっぱり義理の親が愛情があるわけがない」
etc..
中でも気になったのは
「親なんだから恋愛とかではなく子どもに愛情を注ぎ続けろ」論
確かに、シングルの場合に欲求不満や精神的な不安から相手を求めてしまう人が多いように思う。
ただ、問題はそのあと。
結局、何が大切なのかを理性で判断できていない。
さらに、世の中に流され過ぎている。
「理性で判断できていないクズな親」っていう意見を言う人に限って、何も分かっていない。
他人を評価し、見下し、あたかも正当性があるような意見を言う。
そうやって、自分の存在を肯定している。
今回の「義父」だって、もしかしたら、今回の意見を「言う側」だったかもしれない。
何も知らないからこそ、何でも言える。
でも、何でも言える人ほど、すごく浅はかだ。
決してきれいごとを言うつもりもないし、今回の犯罪者を正当化するわけでもない。
ただ、
この日本の人々の本質はみんな一緒で、みんな今回のような犯罪者になりうる「犯罪者予備軍」でありますよ、
と、今回のニュースに対する反応を見て感じた。
それだけ。
本当の悪は、自分の中に潜んでいる。
誰かが悪いだの、
何々が悪いだの、
自分の目から見えている対象への悪意は、そのまま、自分に対しての悪意と同じ。
誰かを憎めば憎むほど、自分を憎むことにつながる。
自分の目に映る全ての悪は、あなた自身の悪へと変わっていく。
偽善の生活は、そのまま、偽りの自分自身を形成し、偽りの人生をつくりだす。
ほんとに、善い生き方を目指すのであれば、自分との向き合いをすべきだ。
そうでないと、その生き方へ近づくことはない。
占いや心理テストにハマりやすい人へ
ずばり、あなたは楽しようとし過ぎている。
占いなんて、勝手に自分を判断されて、これからは運勢上がりますだとか、こうするのが吉とか、そんなことを鵜呑みにして、舞い上がって、何もしない。
そう、何もしない。
心理テストで、今の自分の心境や現状を当てられたり(たまたまかも?)すると、それを信用して、そのまま突き進んでしまう。
それを咀嚼して、分析しようともせず。
だから結果的に、何もせず、変わらない。
そう。
結果的にそういう類にハマるのは、いかに、楽して、自己分析して(実際はしてない)、生きれるかという、安楽主義だ。
ほんとうに、自己成長してる人は、自分自身の体験からしか自己分析できないことを知っているし、そして、自分と向き合うことの必要性を感じている。
占いや心理テストを見たりするなというわけではない。
あくまでそれは、単なる読み物、であって、精神的向上に直結するものではないということを自覚しておくべきだと思う。
ツマの肌はツルツル、50歳なのに。
ツマは、既に50歳。
食べ物も、自分が“食べたい!”と思ったものを食べてる。
でも、その食べたいモノは、間違いがないようだ。
いきなり、ナッツ食べたい!とかドライフルーツ!とか、何しか、美味しいと思う食べ物が、そういう系。
素直に、それらを食べたいらしい。
おれの場合、素直に食べたいものって、
ラーメンとかなんやけど。笑
ちょうど見たテレビで、日本人で長生きしてるジジババのごはん、みたいな番組やってたけど。
あれを真似したからといって、真似した本人が長生きできるとは思わない。
そもそも長寿になった人たちは、きっと、自然に感覚的にこれだ!と選んでいるのではないかと考えている。
自然に身体が欲するモノを摂取してるから。
自然治癒ならぬ自然摂取。
そんな自然摂取を自然にしているツマだからか、肌がツルツルだ。
その辺の化粧水なんて使ってるの見たことないし、エステにも行ってない。
肌をツルツルにするのに、必要なのは、高級エステでも、サプリメントでも、健康補助食品なんちゃでもない。
自然摂取能力の向上に違いない。
ぼくとボクと、僕。
この一人称の呼び方に、最近違和感を感じる。
自分も普段の生活の中で使ったりするけど、そもそも、この呼び名は、何歳まで人が使っていいのかということだ。
今、"ぼく"は、28歳。
世の中で言うなら、アラサーであり、世帯を持ったり、している世代だ。
そんな世代が、ぼく、という子供っぽい呼び名を使っていいものかとふと思う。
Wikipediaによると、
主に男性が私的な場面で用いるが、フォーマルな場での使用も許容される。男性の謙称であり、字義としては「僕(ボク)」は男の召し使いを指しており、女は「妾(ショウ)」を用いる。
男の召使い。
つまり、ぼくとか、ボクとか、僕とか言うてる僕たちは、全て召使い。
今日から、僕はやめよう。
僕は職人でも専門家でもない。
職人や専門家。
僕もそんな何か1つを極められたらいいなと思うことはある。
でも、出来ない。
そもそも、1つのことにガッと集中して、やり続けるということが中々難しい。
単なる忍耐力の無さなのか、根性の無さなのか、それは分からない。
集中が続かないけど、いろんなことに興味が移りやすい。
そして、新しい情報などをキャッチすることや洞察力には、優れていると思っている。
だから、それらを活かせる生き方に変えようと思った。
楽して生きていく。
そんなことを言いたいのではない。
自分の特性がどうか。
その凸な特性を知った上で、それに合う凹な生き方を見つければいい。
見つけれなければ、自分で凹を創ればいい。
そんな自分の凸凹的特性を追求し、貫いていく(継続していく)ことが、生きることの楽しみになる気がする。